杉本プロ 呉羽を語る
呉羽カントリークラブに来るようになってから40年近くになる。以前の富山県オープンそして現在の北陸オープンと、選手として又解説者として毎年このクラブを訪れている。 多くのコースでプレーをしたが、何時も呉羽カントリーに来て思うのは、その歴史の重みである。
見事な杉木立と豊富な樹木は呉羽の大きな財産であり、魅力になっている。 どのクラブでも18ホールの中で特徴のあるホール美しいホールはいくつかあるが、1枚の写真でこれは何番ホールであるかが、すぐわかることが呉羽の特徴である。 呉羽カントリーのホールは一つ一つに顔があり、1ホール1ホール毎に違った形のものが造られてきた。プレーヤーのために、良いものを造ろう、良いものを残そう、という精神が、コースの管理においても、 運営においても見ることが出来、そして感じることができる。
又同時にこの歴史と樹木は、各ホールの難易度を徐々に高いものにしていった。空中ハザードと我々プロが言うところのもの、下に(地面)あるものはその技術によって処理することが出来る。池やバンカーはそれを造ることも容易ならそれを攻略することも難しくはない。しかし空中にあるハザード、いわゆる樹木は、5年や10年でできるものではない。半世紀に及ぶ木の成長は、0.5打ホールの難易度を高くする。北陸には多数のゴルフ場があるがここまで樹木を守り、育てたコースは呉羽だけであろう、その存在価値は大きい。
そして又、オープンゴルフトーナメントにこれほど多くのアマチュアを参加させる大会は少ない。北陸に於けるアマの技術の向上に寄与した功績は大きく、オープンゴルフを行うことでコース管理にメリハリを与え、 方向づけを示唆しているのである。 さらにこの地を訪れることの、今ひとつの楽しみは食べることである。 新鮮な魚介類、最初に来て食べた甘えびのおいしさは一生忘れられない。 北陸でゴルフをするのであれば、是非一度呉羽を訪れ、この素晴らしコースと海の幸を堪能して欲しいものである。
<杉本英世談>
杉本 英世(すぎもと ひでよ)
1938年、静岡県伊東市生まれ。
1959年プロテストに合格。1964年、日本オープンで初優勝を飾る。1969年には2度目の日本オープンタイトルを始め、 年間6勝という当時としては驚異的な記録を達成。1968年には日本人初のアメリカツアーを転戦するなど、輝かしい足跡を残し、 「杉本時代」を築き上げる。『ビッグスギのSTEP UP ゴルフ』などのテレビ番組のほか、数々の著作を執筆。 現在、日本プロゴルフ協会代議員として、ゴルフ界のために尽力している。
青木功プロと呉羽
数年前、世界の青木功プロが当クラブに来場した。
富山県ゴルフ連盟主催の、「青木功ジュニアゴルフ教室」のためだが、青木プロが当クラブを訪れたのは、昭和46年の「さわやかゴルフカップ」、昭和48年の「北陸クラシック」と都合3回目となる。先の2回は、 新進気鋭のトーナメントプレーヤーとして試合に出場するためだったが、3度目は、富山県内のジュニアゴルファーに夢と感動、そしてゴルフの厳しさを教えてくれた。
富山県では昭和60年より毎年数千人が参加する県民体育大会ゴルフ部門が県内全ゴルフ場を開放して開催されている。また、当クラブで開催された、2000年とやま国体成年男子の部では富山県チームが見事優勝している。それからまた、昭和53年から地元ゴルファーのレベルアップを図る意味で、当クラブで毎年オープントーナメントが継続して開催されている。 ゴルフが県民スポーツの中でも、とりわけ人気のある土地柄である。
ジュニアゴルファーたちのレッスンを受ける真剣なまなざし、それを身振り手振りを交え、時折大きな声を出して叱咤激励する青木プロ。お互いの心にゴルフを通して信頼と尊敬そして友情が生まれていく。レッスンを終えた青木プロは、一人でコースに向かった。1番ホールから順に一歩一歩フェアウェイの芝の感触を確かめ、 大きくなった樹木を見上げ、30数年前、自分が戦ったコースを懐かしむように。 優勝を争った尾崎将司、杉本英世、杉原輝雄の顔とともに、1ホール、1ホール特徴のあるコースその記憶をなぞっていく。 きっと青木プロは、心の中でこうつぶやいているに違いない。
呉羽カントリークラブよ、おまえもあの時よりさらに素晴らしいコースに成長してくれているな。 もう一度プレーヤーとして挑戦してみたいよ。クラブハウスに戻った青木プロは、また来るよと言ってさわやかに帰っていった。
青木 功(あおき いさお)
- 1942年
- 千葉県我孫子市生まれ
- 1964年
- プロ入会
- 2004年
- 世界ゴルフ殿堂入り
- 2008年
- 紫綬褒章受賞